猫先生の弁 |著:豊島与志雄

猫好きな人は、犬をあまり好かない。犬好きな人は、猫をあまり好かない。多少の例外はあるとしても、だいたいそう言える。猫と犬との性格の違いに由るのであろうか。

大胆な冒頭ですが、そんな事無いです。犬も猫も飼ってますし、好きですよ。
と読み始めて最初に思いました。

豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月27日 – 1955年(昭和30年)6月18日)は、日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。

「猫先生の弁」の他に、「金の猫の鬼」「猫」「猫性語録」「猫捨坂」など、作者は猫をテーマにした作品が多く特に「猫」では以下のように述べている。

猫は飼主に属するよりも、より多く飼家に属するそうである。飼主の人間どもが転居する時、猫はそれに従って新居に落付くことなく、旧家に戻りたがる。それが空家になっていようと、或は新らしい人間どもが住んでいようと、そんなことには頓着なく、旧家に住み続けたがる。だから、三日飼われてその恩を三年忘れない犬と反対に、猫は三年飼われてその恩を三日にして忘れる。云いかえれば、三年飼われてその家を三日にして忘れる犬と反対に、猫は三日飼われてその家を三年忘れないとか。

猫を飼ったことがあるのかどうかが定かでない人の弁である。三日飼われたら猫は野良でも、室内でもまず、忘れない。帰巣本能もあるし、そもそも、安全に餌をくれる希少な人物を忘れる程、ぬるい生活は送っていない。

豊島先生は猫好きらしく「猫」では「恩知らずでは無い」不思議な一面、愛嬌ある、そして少し悲しいエピソードを紹介してくれている。

猫が薄情に思われるのは、縄張り意識が強く、新居に行きたく無い、移動したく無い、縄張りを捨てたく無いという意識が強いため、他猫の縄張りを嫌う猫は多いので、姿を消すと「恩を忘れた」と思われるのかもしれないが、単純に「(弱いから、オスだから)そこにいられなくなった。」というのが実際の所である。

猫について「猫」で印象深いのは最後の行。

 対象を無視するそういう母性愛は、広い意味で、極端に唯物主義的である。或る種の吝嗇は、遂には黄金崇拝となる。或る種の名誉心は、遂には勲章崇拝となる。或る種の色欲は、遂には肉体渇仰となる。種々の感情や欲望も、極端に詮じつめれば、単なる唯物主義になることが多い。私の家の猫の母性愛は、自己満足だけで満足するほど唯物主義的になったが、猫の身の悲しい哉、人形愛撫にまでは堕しなかった。――其後、仔猫は些細なことで病死した。親猫の悲歎は見るも憐れだった。がそれに対して私は、猫の子の人形を与えてやる術を知らなかったのである。
 尾の長い純白の男猫と尾の長い漆黒の男猫とを、私はいずれ飼いたいと思っているが、それまでの間、婆さんの猫は一人淋しそうだ。ひどく人なつこくて、飼家によりも飼主に属しており、而も心理的には更に唯物主義的なのが、怪しく私の心を惹く。

哲学的な側面を残しながらもそこはかとなく、猫の愛情を感じました。